新・玄マンダラ

第10回 東証・みずほ証券・誤発注裁判 「クラウド・コンピューティングの陥穽を思う」

概要

これまで一年半にわたり、「玄マンダラ」をお読みいただき感謝申し上げます。 平成21年7月から、装いを改め、「新・玄マンダラ」として、新しい玄マンダラをお届けすることになりました。 ITの世界に捕らわれず、日々に起きている事件や、問題や、話題の中から、小生なりの「気づき」を、随筆風のコラムにしてお届けします。 執筆の視点は、従来の玄マンダラの発想を継承し、現在及び将来、経営者として、リーダーとして、心がけて欲しい「発見」を綴ってみたいと思います。 引き続き、お付き合いを御願いします。 職場で、あるいは、ご家庭での話題の一つとしてお読みください。

注目していた、掲題の訴訟判決が東京地裁から12月2日に出た。 すでにご承知と思うが、この問題のポイントを整理しておく。
 
2005年12月8日、みずほ証券は、人材サービス会社ジェイコムの株をジェイコムから、「一株61万円」で売り注文を受けた。これを受けたみずほ証券は、「61万株と1円」として東証に誤発注をした。 みずほ証券は誤発注に気付き、これを訂正したが東証の訂正処理が機能せずに大量の取引が成立し、みずほ証券はおよそ400億円の損害をした。 みずほ証券は、訂正するまでの損害は自社のミスであるが、訂正が有効に機能しなかったのは、東証のミスであるとして、400億円の損害賠償を訴えていた。 これに対して、東証側は、東証はシステムを提供しているだけであり、その内容にまで責任を負うことは出来ないとして、争ってきた。 東京地裁の結論は、すくなくとも、東証が訂正処理を人的判断で行えるタイミングで取引を停止しなかったのは東証に責任あるとして、その時間は割り引いて400億円でなく、150億円をみずほ証券の損害と認定して、それを、東証7,みずほ証券3の比率で、双方に責任ありという判決であった。
 
この問題は、IT関連の企業としては極めて示唆的であると思うので、感想を述べておきたい。 まず、裁判の判定は、大岡裁判にも似て喧嘩両成敗というよい判決であると思う。地裁は、誤発注側にも誤発注が確認できていたにもかかわらず警報を無私して発注したという責任をとがめている。 東証に対しては、誤発注処理が機能しないとシステムの不備が判った時点で、人為的に取引を停止させるという判断を怠たり社会的な責任を果たしていないと判断した。 小生は、この報道から、以下のことが示唆的であると思っている。
 
1.みずほ証券は、発注するときに画面に「警報」が出ていたにも係わらずなぜ確認することなく発注をしたのであろうか? 「一株だけ」61万円という顧客の発注になぜ、疑問をもたなかったのであろうか?
 
これは、みずほ証券の発注システムにおいては、おそらく日常茶飯事に発生していた作業であり、かつ「警報」だったのではなかろうか。 つまり、おかしいことが常態化するとそれが当たり前化するという、精神の麻痺、思考停止現象ではなかろうか。 そして殆どのケースではそのおかしい状態でも社会的に問題が健在化することなく済んできたということである。 たまたま、金額が巨大のために健在化したものであり、99%のケースでは健在しないままに処理が行われ来たと思う。 だから、いつものこととして、また、一株だけの注文か、これは市場の「当たり」をみるいつものやつか、という具合に思考停止となり「警報」は機能しなくなる。 俗にいう「オオカミ少年現象」にも通じるものである。 どんなシステムでも、どんな「警報」を出しても、判断するのは人間であり、人間が思考停止になっていれば、いかなるシステムも機能することはない。 一株注文という異常さ、システムの「警報」に麻痺する異常さ、これが問題の原因である。 その原因は、いうまでもなく、人間の精神の劣化なのである。
 
2.東証は、明らかに誤発注と認識したにもかかわらず、なぜ取引の停止をしなかったのであろうか? 
これは理解に苦しむ。 しかし、東証の義務はシステムを提供しているだけであり、その内容責任は負わないという裁判における東証の姿勢をみたときに、この姿勢、この精神こそ東証のもっているもっとも危険な体質であると思った。 この体質があるからこそ、東証としての判断をすることが出来なかったと思う。 つまり、社会的な責任ということに対する東証の社員の訓練が出来ていなかったということを意味するのではなかろうか。 いまや、証券のシステムは、社会的インフラそのものである。 社会的インフラを構築、運営、管理する企業には、社会的な責任が必然的に伴うものであり、その、訓練は日頃よりされるべきである。それが欠落していたということではあるまいか。 つまり、ここにも、人心の劣化があると指摘できると思う。 
 
3.東証の義務はシステムを提供しているだけで取引内容に責任を持たないというが、そんな社会的システムがあるだろうか?
 
裁判でのこの姿勢は、東証という企業の社会的存在を地に落とすことになったと思う。 これは信じがたいことである。 この情報化の時代に、おれはプラットフォームだけを提供している、その上のアプリケーションとその結果はおれの責任ではないという理屈が一体どこから出てくるのであろうか。世界中の証券会社はそのような精神で運営されているのであろうか。インフラシステム、ミドル、アプリケーションの区分けなど厳密には出来ない。 トラブルはどこでも起きる。 このような企業が、上場を目指しているということは信じがたいものがある。社会的責任を果たせない企業に上場の資格などあるのであろうか。
 
そして、これは、上記の2項とも関連するが、巨大システムと個人の管理責任の巨大なギャップという問題があると思う。 巨大システムが何等かのシステムの不都合で暴走したときに、その暴走を暴走と判断して、システムを停止させることは想像を絶するほどの勇気が要る。 事実上、現代においてそれを個人の責任に任せることは限界を超えていると思う。 だから、暴走に対しては、仕組みとしてその暴走を止める緊急手段が日頃から準備され、訓練されている必要がある。 いわゆる組織的な危機管理である。 東証にはこの危機管理の体制に問題があったのではなかろうか。 その危機管理は、結局は人間の判断に依存する。 ここにも、人の劣化という問題が指摘できるのではなかろうか。
 
4ジェイコムは、なぜ、一株だけ61万円という、売り注文をしたのであろうか?
 
小生は、ゼロ金利に腹を立てている一人であるが、株式をやらない。 どこか、浮利を追いかけるような気分となり性分に合わないのである。だから、政府が、貯金から株式へと言う国家政策を展開しているのをみるとき、この国家はどこかおかしくなっていると思っている。株式が企業の実績を反映していた時代はよいが、いまの株価は企業の実績とは関係のない要素で大きく左右されている。つまり投機である。投資=株式、これが現代の構図である。これは浮利を追いかけることになる。 日本の先達はこれを戒めてきたはずであるが、いまでは、国家をあげてその戒めを解いている。 だから、このような、理解の出来ない注文が平気で蔓延することになる。 一株の売り注文を出すということは、市場をリトマス試験紙でテストすること以外に意味がない。 リトマス試験紙で市場の色を確認した上で大量の売りを出すに決まっている。 つまり、投機の潮をみる浮子である。市場が投機であることを前提にしてこのような売り注文が常態化していることに問題があると思う。 つまるところ、拝金主義がその根底に覗いている。これもまた、人心の劣化ではなかろうか。
 
5.400億円の暴利にありついた人々はどんな気持なのであろうか?
 
この取引で、市場でパソコンからデイトレードしている人の中に、暴利を獲得した人が居るという。これを返せとは言えないであろう。 株式市場は「一事不再理の原理」である。取引を復旧することは出来ない。 最近は、パソコンで、デイトレードをしている、ご婦人や、シニアの人が多いと聞く。 金利がゼロである時代に、政府は株式市場への投資のながれを誘導しており、必然的に退職金や、年金を運用する人が、この世界に入る。 終日、パソコンで株の画面と見つめているご婦人や、シニア世代、若い人もテレビで紹介される。 株価に一喜一憂する姿が紹介されている。 このことに、一億総博打、一億総投機の時代を感じるのは小生だけであろうか。 一度、浮利を経験すると、全うに金を稼ぐことはばからしくなるものである。 その姿を子供がみて育つ、一体どんな子供が育つのであろうか。 米国では、小学校で演習に株式の取り扱いを教えるところがあると聞いた。 日本でも経済を知るために導入すべきという議論があったという。 一体、日本はどうなるのであろうか。 精神の劣化極まりという気分となるのは、小生だけであろうか。 拝金主義の恐ろしさは染まっていると自覚できないことである。
 
6.時代はクラウド・コンピューティングの時代である、その時代に示唆的な事件ではなかろうか?
 
さて、IT業界は、こぞって、クラウド・コンピューティング時代へ突入と宣伝している。 東証システムは巨大なクラウド・コンピューティングとみることが出来るのではないだろうか。 時代は、所有から使用へ、オンデマンド、ユーティリティの時代といい、その代表選手にクラウド・コンピューティングが取り上げられている。 今回の東証の巨大システムを、クラウド・コンピューティングの一つの姿と小生は見る。 従って、この問題は、クラウド・コンピューティング時代を考えるときに多くの示唆に富んでいると思う。 顧客企業がクラウド・コンピューティングということでIT企業のシステムを活用することになる。 そして、いつか、システムの不具合で今回のような問題が起きることもあろう。 その時、顧客企業と、クラウド・コンピューティング企業との関係を、今回の問題に置き換えて考えることが、大事な学習ではなかろうか。 従来の、SLAとは異なる次元の、損害補償の契約が必要ということを意味するのではなかろうか。
 
以上、裁判の記事を見て、思いついたことを記述してみた。 読者各位も今回の問題を、他山の石として、みずからのビジネスで何を考えるべきかを学習してはどうであろうか。
 
 
以上。

連載一覧

コメント

筆者紹介

伊東 玄(いとう けん)

RITAコンサルティング・代表
1943年、福島県会津若松市生まれ。 1968年、日本ユニバック株式会社入社(現在の日本ユニシス株式会社) 技術部門、開発部門、商品企画部門、マーケティング部門、事業企画部門などを経験し2005年3月定年退社。同年、RITA(利他)コンサルティングを設立、IT関連のコンサルティングや経営層向けの情報発信をしている。 最近では、情報産業振興議員連盟における「日本情報産業国際競争力強化小委員会」の事務局を担当。

バックナンバー