次に来る時代~脱情報化社会への序章

【第6回】 未来が評価する現代史(地球と人類の未来社会へのプロローグ)

概要

ふと気がつくと、いつの間にかWeb3.0やユビキタスという言葉もどこか影が薄くなってしまいました。わざわざ新しいキーワードを創造する必要もないくらいにICTは社会資本として根づいたということでしょう。また、クラウド・コンピューティングの有効性はもちろん否定しませんが、発想自体は工業化社会の「規模と囲い込みの発想」とか「危険の分散」の法理そのものと同一のフィールドなのかもしれません。このところ「情報全体主義」などという不埒な言葉を思い浮かべることが多いのは困ったことです。『人間の未来』(竹田青嗣)と『21世紀の歴史』(ジャック・アタリ)に強く刺激されながら、ごいっしょに「情報化の未来」を考えていきましょう。

目次
「反応性・柔軟性・弾力性」
「未来とは今である」(マーガレット・ミード)
次にくる時代へ
大切な精神
未来から見た現在~おわりに

「反応性・柔軟性・弾力性」

 企業というのは、景気が後退しはじめるとコスト削減に取り組み、事業活動を縮小し、逆に景気が回復しはじめるとそのチャンスを生かそうとさまざまな投資を活性化させます。そのため、企業は、できるだけ正確な「未来予測」によって、事業活動のリスクと不確実性を減少させようとしてきました。

 
 しかし、現代の「カオス的状況」(『カオティックス』P.コトラー、東洋経済新報社2009)においては、未来予想そのものが非常に困難であるという認識から、組織の「反応性・柔軟性・弾力性」の強化が提唱されています。従来から「コンティンジェンシー(Contingency)」(状況適合)という考え方とほとんど同じ目線です。
 
 景気が乱高下する現代においては、「いつ、何が起こるかわからない」から、それに立ち向かう物心両面の下準備を普段からしておこうという考え方は、「危機管理(クライシスマネジメント)」の発想です。事前に想定すらできない危機に対しては、対応マニュアルの作成は不可能ですから、その時に最善の対応をするためには、組織の「反応制・柔軟性・弾力性」が最も重要となるわけです。
 
 成熟化した現代資本主義社会(リスク社会ともいわれる)において、危機管理の考え方が、経済学や経営学の本流に取り入れられていくプロセスとして非常に興味深い傾向です。資本主義そのものが若々しい成長期であった20世紀の中盤までは、経営手法としても、未来予測に基づくPDCサイクル(計画性)の実行が重視されてきました。ちょっとシニカルに言えば、「未来への明るい希望」がまだ現実に存在した時代だったということでしょうか。
 
 

「未来とは今である」(マーガレット・ミード)

 ところで、歴史学の本を紐解きますと、時間の経過(すなわち歴史)を「循環的(円環的)」と見るか、「直線的(経過的)」と見るかという視点がその地域の文化の違いを語る上での大きなポイントになっています。

 
 大雑把に言えば、毎年春になれば作付けし、同じ作業を繰り返す農耕社会では、時間は一年ごとに「ふたたび巡り来るもの」として循環的に認識されます。一方、日々まったく違う環境を駆ける狩猟社会では、時間は不可逆的、直線的に過ぎていきます。 
 
 地中海の海洋諸都市において、時間の観念は、直線的な「成長」のステージとして認識されはじめたといいます。その思想が、果てしなく広がる大海原へ船出した「勇気」と「冒険心」に溢れる勇者たちの「大航海」によって、はるかユーラシア大陸の東端まで伝えられたのでした。
 
 一方、農耕社会では、一カ所にとどまって作物を「育てる」のが基本的な生活様式ですから、日々を生きることに必要な精神は「慈しみ」と「守成」です。この二つの文化(農耕と狩猟)が、不思議なくらい絶妙に融合し、わが国の現代社会の精神が構成されているといえるのではないでしょうか。
 
 その上、今や、「明日をも知れぬ」不安定な生活状況はおおかた克服されて、人々にとっては、時間の観念は「循環的」でも「直線的」でもなく、「刹那的」、「享楽的」なものになりつつあります。
 
 そういう社会状況の下で、「百年に一度」という大不況を迎えているわけですが、やはり、企業も、マスコミも、政府も、相変わらず、グローバルに「競争優位」を目指し、「成長」を続けていくことが望ましいと主張しています。しかし、人々が刹那主義的に生きる現代社会では、これは一種の自家撞着ではないでしょうか。
 
  西欧の近代がつくりだした資本主義という社会経済システムは、直線的な「競争」と「成長(膨張)」を本質的な要素としていますから、農耕社会から出発したわたしたちにとっては、資本主義経済の「成長」発想からの脱却(解脱)は、すなわち西欧文化の超克と同義です。(そのようなことが、現代のグローバル社会で不可能であるかどうかという議論には、ここでは触れないでおきます。まだチャレンジもしていないのですから。)
 

次にくる時代へ

 今回のシリーズは、「脱情報化時代」という時代区分についての再考からスタートしました。トフラーが「第三の波」と称した「情報革命」への若干の懐疑を含みながら、「情報化」による社会の変化について考えてきました。ひとつには、「情報化」の飛躍的進展は、現代産業社会の「何をどう変革したのか」ということ。そして、「ポスト産業社会」という曖昧な用語の意義を疑いました。

 
 思いますに、「情報化社会」というのは、一面では、産業構造自体が、人と自然(農耕社会)や、人とモノ(工業社会)の関係が中心であった社会から、ふたたび、人と人の繋がり(「サービス社会」)に回帰したということではないでしょうか。ところが、わたしたちは、今度はサービスという絶対にゴールのない無限競争の場を発見し、そこに「差別化」などという恐ろしく無分別な言葉を目標に掲げて相変わらず、「慌ただしく」、「ささくれだった」競争社会を駆け続けているのです。
 
 先日、あるパブリック・リレーションズ(企業広報論)の参考書で、「社員の反乱」という言葉に出会って驚きました。現代の多様な職業観や価値観の中で、所属組織に対する忠誠心の喪失が「内部告発」の増加をもたらし、インターネットなどの「情報ツール」の進化(これも情報化)がその行為を容易かつ助長したというわけです。
 
 しかし、「反乱」という用語は、違うのではないかと感じます。ほとんどの場合、「反乱」する社員のほうが「反乱される側よりはるかに苦しいはずです。内部告発という行為の動機が、正義感からか、私怨からなのか、それともその他の理由からかはともかくとして、内部告発されるような事象がさまざまな企業内にいくつも存在すること事態が、現代資本主義の誤謬のひとつであるという「まっとうな視点」がここでは捨象されています。
 

大切な精神

 この小稿で「経済成長神話がおかしい」とか、「慌ただしい社会を少しでも変えよう」と叫ぶのみでは、ただの老人の繰り言に過ぎません。おじさんは、人々が「今日を一所懸命に生きている」現代社会が、「いったいどこに向かっているのか」というベクトルの方向を見極めたいと考えているのです。(これは未来予想ではありません。)

 
 そもそも、何万年も前から、人類が仲間を募って協働して何かをするのは、お互いのより多くの幸福を願ってのことに相違ありません。わたしたちが、今もさまざまなコミュニティを構成し、企業という組織に集まって探しているのは、「みんながもっと幸せになる」道なのです。
 
 ところが、いつの間にかそのことをすっかり忘れて、自己本位(だけ)の競争優位の獲得と利益確保にうつつを抜かし、また、経営学の研究者までもが「優勝劣敗」社会などと口走るのは明らかに人間の生の営みへの冒涜です。
 
 前回述べたように、近未来の情報化社会は、好むと好まざるとを問わず「超監視社会」になることは間違いがありますまい。そんな社会では、簡単に人の優位に立つことなど絶対にできないでしょう。「抜け駆け」、「模倣」、「欺瞞」、「偽装」・・・というような卑劣な行動は容易に露呈してしまいます。実はその意味で、未来は、現在よりはるかに公平、公正な社会となるはずです。 このことに関しては期待が膨らみます。
 

未来から見た現在~おわりに

 ところで、みなさんは、第二次世界大戦終戦当時の祖父母や両親を想うとき、どのような感情を抱かれるでしょうか。焦土を前に、それでもひたむきに生きる姿への「いとおしさ」と「いらだたしさ」と「いじらしさ」ではないかと思うのです。

 
 人間一人ひとりの生の環境は、それなりにいつの世も厳しく、それなりにいつでも真実です。 未来から見た「今」は、わたしたちが過去を振り返るのとおなじように「いとおしさ」と「いらだたしさ」と「いじらしさ」に満ちたものでしょう。なぜならもし今、未来の価値や文化を正しく知り得たとしても、時代がそれを許さないことが多いからです。
 
 思えばあのとき、西欧文化にあこがれ、追いつこうとして一目散に坂道を駆け上がったわたしたちの先達が、麓に置き忘れてきた尊い精神、すなわち自然と季節に感謝しながら、お互いの幸せを祈って生きる共生社会における「輪廻(循環)」の大切さを取り戻しませんか。そのことは、決して現代資本主義社会の「掟」に反するようなことではありません。 わたしたちは、もう欲しいものはあらかた手に入れたのですから。
 
 そのとき、この世界はまたふたたび、わたしたちみんなの「しあわせ」のために静かに、キラキラと輝きだすのではないでしょうか。そうしてこそ、きっと美しい未来がくるはずです。

  やがてお前達が大きくなって 虚栄の市へと出かけて行き
  必要なものと 必要でないものの見分けがつかなくなり
  自分の価値を見失ってしまった時
  きっとお前達は 思い出すだろう
  すっぽりと夜につつまれて
  オレンジ色の神秘の炎を見詰めた日々のことを
「火を焚きなさい」 詩・山尾三省(『びろう葉帽子の下で―山尾三省詩集』 野草社より)

謝辞:みなさん、今回のシリーズもお目通しいただきありがとうございました。日々の業務に忙しくお過ごしのビジネスパーソンのみなさんが、ちょっと立ち止まって深呼吸していただけたら幸いです。また、お会いしましょう。

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コメント

筆者紹介

松井 一洋(まつい かずひろ)

広島経済大学経済学部教授
(メディア・マーケティング論、e-マーケティング論、企業広報論、災害情報論) 2004年4月から現職。体験的な知見を生かした危機管理を中心とした企業広報論は定評がある。最近は、地域の防災や防犯活動のコーディネーターをつとめるほか、「まちづくり懇談会」座長として、地域コミュニティの未来創造に尽力している。著書に『災害情報とマスコミそして市民』ほか。

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