次に来る時代~脱情報化社会への序章

【第1回】 『脱情報化』とは前進ではありません

概要

ふと気がつくと、いつの間にかWeb3.0やユビキタスという言葉もどこか影が薄くなってしまいました。わざわざ新しいキーワードを創造する必要もないくらいにICTは社会資本として根づいたということでしょう。また、クラウド・コンピューティングの有効性はもちろん否定しませんが、発想自体は工業化社会の「規模と囲い込みの発想」とか「危険の分散」の法理そのものと同一のフィールドなのかもしれません。このところ「情報全体主義」などという不埒な言葉を思い浮かべることが多いのは困ったことです。『人間の未来』(竹田青嗣)と『21世紀の歴史』(ジャック・アタリ)に強く刺激されながら、ごいっしょに「情報化の未来」を考えていきましょう。

ここ数ヶ月、ちょっと遠いところまで旅をしてきたおじさんは、こうしてふたたび、みなさんとお話できることを無上の喜びと感じています。この間、何をしていたかというと、一番たくさんの時間を費やしたのが『地域コミュニティと高齢社会』というテーマへの取り組みでした。この文章をお読みいただく若いみなさんには、あまり興味のないものかもしれませんが、誰もが避けて通れない「生」の問題ですし、社会の「情報化」ということにもおおいに関係があります。これからは、そういうことにも十分に配慮されたICT社会であることを強く望んでいます。

大不況と言われる時代に

 ところで、このところ世界の経済情勢はめまぐるしく動いています。新聞をろうそくで炙ってみますと(?)、浮き出して来る文字は『今回の不況の解決策がわからないだけではなく、病根の深さがわからない』という何とも情けないお話です。もっとひどい近視眼的発想は、これまでグローバル経済と言い習わし、我が世の春を謳歌してきたのに、今回の不況は『アメリカ発』であるとまるで「人のせい」にしているものにも出会います。

 
マクロ的に言えば、20世紀のおわり(『歴史の終わり』F.フクヤマの言葉を借りれば)から、世界的に進んできた市場の再編や市場開発にともなうグローバルな経済構造の基礎部分に、大きなひび割れか、もしくは空洞が見つかったということでしょう。多くの地球人(グローバルした社会ではこう呼ぶのが妥当だと思います)がよりどころにしてきた「世界的経済システム」の瑕疵です。
 
ただし、おじさんが忸怩たるものを感じるのは、数十年も前からあれほど「情報化社会」の到来が言われてきたのに、アメリカのサブプライムローンの証券化による投信等への組み入れ先の全容すらはっきりしないなどというのは、とても情けなく思いますし、そのようなものに眉唾を感じたりしています。どこまでが真実なのでしょうか。
 
そういう意味も込めて、情報化時代というのは、人間の歴史的な時代区分のひとつとするには、はじめからちょっと弱かったのかも知れません。産業社会における高度な情報伝達技術の発達が華やかな情報化時代(情報の商品化)を支えてきたわけですが、それによって人間と人間社会がどのように変わってきたかというと、道徳的、倫理的にあまり褒められた進歩をしていないからです。
 
世界経済は、今回見つかった基礎部分の修復工事を終えれば、ふたたび回復基調を迎え、次の新しい歩みが始まるというのが穏当な未来像だと思います。これぐらいの不況で「成長神話」から完全に脱却するほど人間と人間社会は脆くありますまい。もちろん、そのためには世界的な市場の再編や新しい市場と新商品の開発等も起るべくして起ることでしょう。一部の経済書がとりたてて騒ぐようなイノベーティブ(創造的破壊を伴う)な問題でもないでしょう。
 

情報化時代を振り返って、

 情報化がもたらしたのは、人間同士の、そして異文化とコミュニケーションの発展です。「コミュニケーションが人間を幸福にすると言うことは、一般論として正しいことだ。しかし、コミュニケーションが戦いを引き起こすこともあり得る」という言説は、おじさんが情報に関して学び始めたころからずっと忘れ得ない教訓のひとつです。

 
もちろん、「情報化」という言葉が使われはじめて以来、人々の「知る権利」に奉仕する精神とか国家間や民族間の未然のトラブル防止、ビジネス社会では、顧客リレーションシップの向上とか市場における競争優位の確保など、さまざまなメリットが主張されてきたことは、前回までのシリーズで何度も触れてきたとおりです。
 
そして、現代の「情報化」された人間は、いままでにないさまざまな情報を容易に入手できることで、その外的および内的活動を大きく拡大し、生活の安心・安全や幸福の追求を図ってきました。世界的なコミュニケーションの向上によって、無用の争いが避けられるということも、古くキューバ危機以来の米ソ首脳のホットラインに言及するまでもなく頷けることです。
 
しかし、情報の種類によっては「それを知ったがゆえに争いを引き起こすことがある」という警句は否定できないのではないでしょうか。現実の戦争から、ビジネス社会における企業間競争まであらゆる場面でそういうことが言えるように思います。また、情報には鮮度が必要であるという発想をとことん追求していきますと、昼夜を分かたず情報洪水に身をさらすことになります。それは、本当に幸せな社会の到来とは言えないでしょう。
註:コミュニケーションとは、相互理解が基本です。
24H、30cmのところに、常に情報ツール(モバイル)が存在するようになった現代の都会人の生活を無碍に否定してみても何の意味もありませんが、多くの人が情報に追い立てられるような気持ちで暮らしていることは事実です。
 
社会学者は、さまざまな切り口でそんな現象を分析して見せてくれますが、多分、ここから得られる大きな教訓などなく、それが現代人の日常生活のありようだと是認するしかないのではないかとも思います。なんとなれば、そもそもICT社会とは、高度なデジタル技術と現代人のニーズ(欲求)の相互作用によって、人間が意識的に創出してきた社会であるからです。
 

もう一つのアングザイアティ

 もうひとつのおじさんの心配をここでお話しましょう。 先ほど述べたように「人間同士のコミュニケーションが大切だ」ということは、いろいろな場面で言われることです。しかし、社会には、他人とのコミュニケーションを拒絶する人がたくさんいます。また、他人とのコミュニケーションをうまくとれない性格の人もいます。そういう人の生とか生活をどのように評価するかということです。「コミュニケーションが取れないことは間違いだとか不幸だ」なんて手前勝手な自己本位の発想になっていないでしょうか。

 
これはメディア論だけの問題ではありません。わたしたちが情報化という大きなうねり(波)の中で、人間同士のコミュニケーションを当たり前だと感じることこそ、大きな問題なのです。情報というのは、通常の社会生活の中では、自分に必要最低限なものだけでよいはずです。例えば、朝の電車の遅れ、肉親の安否、所属組織とその業界の営業状況、そして関係する政治や社会の動向・・・。それ以外に、それほど必要な情報なんてありません。
 
おじさんが「脱情報化」というとき、そこには「情報化」という言葉に対する懐疑心が横たわっています。もちろん、いまだにパソコンを一本指打法でしか入力できないという羞恥心に裏付けられたサムライ・ジャパンの意地もありますが、長い人生の中で「聞きたくなかった(聞くべきでなかった)」情報を耳にしたことによる苦悩や不幸にもたくさん巡り会ってきたからこその繰り言です。
 
「脱情報化」とは、情報至上主義からの脱却です。それはある意味で、人間の原点に戻ることであり、もうひとつは、情報化社会の帰結と次の新しい社会の到来と言い得ましょう。もちろん、企業システムとしての情報管理はビジネスの重要な視点です。しかし、まちがっても、人間を情報システムで管理しようなどと考えてはなりますまい。そんなことをすれば、人間をデータとして管理するという大きな過ちを犯すことになります。(シニカルに言えばそのほうが公平という場合もありますけれど・・・。)
 
リックライダーが1960年の論文に示した『人間とコンピュータの共生』や『思考のための道具としてのコンピュータ』という思想は、やはり現在も忘れてはなりません。コンピュータ中心社会など来なくてもよいのです。「世界の5台のコンピュータが情報を支配する」などというのは許されざる暴言であり虚構です。
 
次回は、ポストモダンといわれる現代と情報化との関係について考えていきたいと思います。

連載一覧

コメント

筆者紹介

松井 一洋(まつい かずひろ)

広島経済大学経済学部教授
(メディア・マーケティング論、e-マーケティング論、企業広報論、災害情報論) 2004年4月から現職。体験的な知見を生かした危機管理を中心とした企業広報論は定評がある。最近は、地域の防災や防犯活動のコーディネーターをつとめるほか、「まちづくり懇談会」座長として、地域コミュニティの未来創造に尽力している。著書に『災害情報とマスコミそして市民』ほか。

バックナンバー