デジタル海流漂流記

第2回 『鏡の国のアリス』のように

概要

「木の葉のような小船に乗って、高波が次から次へと押し寄せるデジタル海峡に漕ぎ出した、身の程知らずの団塊の世代」の好奇心だけは旺盛なおじさんが、悪戦苦闘しながら過ごしたビジネス人生を振り返りながら、「わたしたちは、どこから来て、どこへ行くのだろうか」という人間の普遍的ともいえる問いかけのこたえを模索する物語を連載シリーズとして掲載いたします。

マイコン組み立て教室

漸くビジネス社会にも慣れ始めたある日の夕方,一枚の回覧が回ってきました。社員研修の一環として,「大阪高等技術研修所にて,コンピュータを作りに挑戦しませんか」という内容でした。当時の人事部はなかなか進んだ発想をする部署でした。

好奇心旺盛なおじさんが,こんな千載一遇の機会を見過ごすわけがありません。早速,申し込みました。そして,待ちに待った研修初日,業務終了後に夜間学校の教室に行くと手渡されたのが,いわゆる「ワンボード」のマイコンキットでした。(マイコンというのはマイクロコンピュータの略称です。)

そもそも,全身これ文科系のおじさんは,コンピュータというものが時代の先端技術であるというかすかな認識はありましたが,実は,二進法すら曖昧な数学音痴でした。それが技術系の人々といっしょに,いくら8ビットとはいえコンピュータを作ろうというのですから身の程知らずも甚だしい挑戦でした。

翌朝,はんだごてと高価なテスターを購入し(道具にだけは凝るタイプなんです。これって,団塊の世代の特徴のひとつかもしれません。),組み立て作業を開始しました。授業時間だけではなかなかうまくいかず,二夜ほど徹夜して,なんとかボードは動きましたが,8進LEDが8桁並んだ出力装置の数字が変わるだけのなんとも面白くない機械でした。使い道もわからず,結局,しばらくして行方知れずになってしまいました。あのときに習ったBASICもそのとき限りで使う機会はありませんでした。

それからしばらくして,会社には巨大なメインフレームのコンピュータが導入され,事務機械室という部署が新設されました。今考えても不思議なのは,空調の効いた厳かなコンピュータ室が本社ビルの8階にあったということです。その部屋だけは,スリッパに履き替えさせられました。どこか特別な部屋という雰囲気でした。それにしても,コンピュータ室はなぜ一階ではいけなかったのでしょう。搬入するだけでも大変だったでしょうに。そして,費用もかかったでしょうに。

当時,営業企画業務に携わっていたおじさんには,事務機械室との接触はほとんどありませんでした。ときどき社員食堂で出会う面々は,わたしたちの知らない(わからない)特別な技術や能力を保有した「遠い人」という印象だったのを記憶しています。こんなところが,現在に続く,コンピュータ部門と現業部門との不可解な隔たりの原因かも知れません。ブラックボックスに入った高度な技術が介在する相互理解の不足でしょう。この問題は,これからも引き続いて考えていきたいと思います。

ワープロの登場

慌しく過ぎていく日々に翻弄されながら暮らしていたある日,出勤しますとフロアの一角のコピー機スペースにワープロ(ワード・プロセッサー)が二台鎮座していました。それまで,役所などに提出する活字文章は,タイピストのおばさんたちに低姿勢で依頼することになっていました。今となっては懐かしい思い出ですが,原稿が一字でも間違っていたりしたら,こっぴどく叱られたものです。

ところが,このワープロという機械を使えば,見事に活字が印刷されるのです。初期のものは,現在のデスクトップパソコンほどの大きさがあり,文字のポイントやロゴタイプを自由に変更することもできませんでしたが,それでも革命的な出来事でした。文言の訂正や修正に,もう余計な気遣いは不要でした。(この機械の出現が,タイピストの方々の職場を狭めて行ったのだと気づいたのは,ずっと後,自分が人事部に配属になってからのことでした。)

おじさんは,夢中になってワープロの一台を終日独占的に使用し,周囲からおおいに顰蹙(ひんしゅく)をかったものです。ローマ字で入力すると日本語に変換され画面に表示される文章作成作業は,まるで絵画を描くか,工作をするようなわくわくする興奮がありました。後に普及してくるパソコンとの違いは,10行くらいの長い文章を平仮名で一気に打ち込んで変換したら,すべてが漢字混じりの正しい文章に直ってしまうことでした。すばらしい技術でした。そしてこれは,文章作成にパソコンを使い始めて,非常に不便に感じたことでした。

猛烈サラリーマンの目覚め

1970年代も終わりに近づいた夏の日の昼下がり,東京・泉岳寺の某私鉄本社にお邪魔したときの話です。たまたま,同じ大学の卒業生であるというだけで,ずいぶん親切にしていただいた先輩がいらっしゃいました。その方が,自慢げに見せてくれたものは,ベルトにつけたポケットベルという最新ツールでした。(ほんとうは,「兵器」と書くほうがぴったりするのですが,おじさんは,マーケティング論からも,戦略や戦術という戦争用語をいっさい排斥すべく日々頭を捻っていますので・・・。)

「こいつがあれば,どこにいても連絡が取れる」という説明に,”Oh God!”とは叫ばなかったと思いますが,そのとき初めてポケットベルというものを目の当たりにしました。最初の頃のポケットベルは,ピーピー音が鳴って「呼んでるよ!」と知らせてくれるだけでした。こいつが鳴れば,公衆電話からあらかじめ決められた電話番号に電話するのです。ポケットベル導入反対派の方々は,「時間外まで,会社に縛りつけられたくない」という意見でした。(ポケットベルというのは,NTTドコモの登録商標だそうです。)

それまで,営業や出張で社外に一歩出れば,会社の監視から解放されましたし,就業時間以外に会社から電話がかかるというのは,医師や新聞記者など特別な職業の方以外には,よほどの緊急事態でした。それが,この「無線呼出し」という小道具のお陰で,ちょっとした要件でも呼び出しがかかるようになりました。こうしてビジネスマンは,まるで無線という見えない紐で会社に繋がれた鵜のような存在になったのです。

一方,ポケットベルを持っていることの安心感は,家族が病気やトラブル時にも,連絡が取れるということでした。つまり,夜の街を,時間をまったく気にしないで彷徨できる自由を手に入れたといえるかもしれません。大切なときに連絡が取れないで後悔するという事態を避けることが可能になったのです。「いつでも連絡が取れる」ことで縛られているという不自由さと,「時間や場所を気にしないでいられる」自由の相克であったように思います。

しばらくして,ポケットベルは,単に呼び出し音を鳴らすだけのものから,プッシュ信号によって数桁の数字を送信できるようになりました。ピーピー音は,どこ(誰)からの呼び出しかがわかるようになり,いままでのように数箇所に電話をして用件を確認する不便さがなくなったのです。そして,誰が始めたか,数字の表示に意味をつけ,それだけで簡単なコミュニケーションが取るということが行われ始めます。1990年代,女子高校生の間で爆発的なブームになりました。

新しいコミュニケーション・ツール

「0840(おはよう)」,「0843(おやすみ)」,「14106(愛してる)」,そして「3341(さみしい)」・・・そんな使われ方は,ポケットベルが従来の有線電話に代わる新しいコミュニケーション・ツールとなったことを意味します。携帯電話が普及する以前,ポケットベルを通じて交わされた新しいコミュニケーションの形式は,人間の心にどのような安心,喜びや哀しみを刻んだことでしょうか。『ポケットベルが鳴らなくて』というテレビドラマ(NTV)がそんな世相を切り取っていました。

ポケットベルの進化はそれにとどまらず,あっという間に数字だけではなく,カタカナや漢字まで画面に表示される時代が到来しました。その頃になると,携帯電話も徐々に普及して,しばらく両方の併用時期がありました。しかし,電子メールやショートメッセージサービス機能がついた携帯電話の出現により,ポケットベルは,その短い社会的役目を終えて姿を消していきます。

わずか二十年ほどの間に,ポケットベルというツールは爆発的に普及し,そして激減して行きました。それは,無線技術の進歩と通信の自由化というハードとソフトの両面からのITの発展によってもたらされた社会現象でした。有線電話から個人用携帯無線機(携帯電話)までの期間を埋める役割を果たした貴重な技術でした。

ポケットベルの普及は,市民の新しいコミュニケーションに対する認識を生み出したといえるのかもしれません。「いつでも,どこでも,大切な人と繋がっていたい」という人間の本能的な欲求が達成されたのです。一方で,それは,遠く離れて「想う」という「しとやかな情念」からの離陸であったようにも感じます。そこから,現在のように一人一台,携帯電話を所持するという情報氾濫時代が到来したのです。

「忙しい時代が来た」とある人は嘆きます。一方で,「安心できる時代になった」と喜ぶ人もいます。しかし,通信機器の飛躍的な発達が,ほんとうに人間を幸せにしたのかについては軽々に判断すべきではないでしょう。近代社会は,人間が時間に縛り付けられ,時間の枠組みの中で生かされていく時代です。そして,あらゆる情報は瞬時に伝達されなければならなくなり,それを追い求めていけばいくほど,まるで『鏡の国のアリス』に描かれたように,世界はどんどん早く走りだすのです。

「ええ、わたくしどもの国では、ふつうはどこかよそにたどりつくんです――もしいまのわたしたちみたいに、すごく速く長いこと走ってたら」、
「グズな国じゃの!ここではだね、同じ場所にとどまるだけで、もう必死で走らなきゃいけないんだよ。そしてどっかよそに行くつもりなら、せめてその倍の速さで走らないとね!」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』 山形浩生訳より)

 

次回は,もう少し深く,情報化社会と生活について考えてみたいと思います。

 

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筆者紹介

松井一洋(まつい かずひろ)

広島経済大学経済学部教授(メディア産業論,eマーケティング論,災害情報論) 1949年生れ。大阪府出身。早稲田大学第一法学部卒業。阪急電鉄(現阪急HD)に入社。運転保安課長や教育課長を経て,阪神淡路大震災時は広報室マネージャーとして被災から全線開通まで,163日間一日も休まず被災と復興の情報をマスコミと利用者に発信し続けた。その後,広報室長兼東京広報室長、コミュニケーション事業部長、グループ会社二社の社長等を歴任。2004年4月から現職。NPO日本災害情報ネットワーク理事長。著書に『災害情報とマスコミそして市民』ほか。

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