ITのお国事情~ITはどこから来てどこに向かうのか~

第5回 ITによって世の中が変わってしまった話

概要

現代社会はITなしでは語れません。日本においてはソフトウェア開発分野でのIT人材不足が早くから膾炙されていました。問題を解決するために他国の人材に期待を寄せており、現在ではベトナムが注目されています。ベトナムにおけるIT事情は日本のそれをはるかに超えている面もあります。現地での生活環境、オフショア開発需要、文化・国民性の違いや商習慣の違いからくるITへの取り組みの違いをコラムにしていきます。

第5回 ITによって世の中が変わってしまった話

日本でもキャッシュレス決済が浸透してきていますが、その比率は韓国の96.4%、イギリスの68.6%に比べて日本は26.8%(2021年時点)と世界的にみるとまだまだ低い水準にあります。国家運営においてキャッシュレス決済は発展途上国のみならず先進国においても非常に優先度の高い政策となります。現金による決済の問題点としていくつか挙げると、

  •  マネーロンダリングがやりやすい
    2021年のデータでは、日本はマネーロンダリングのやりやすい国第7位です。
  • 市場に流通させるための現金を発行・維持するためのコストがかかる
  •  偽札による被害もばかにならない

政府にとっては上記問題点を解決できるほか、原理的には税金の取りはぐれがなくなる等の利点もあり、各国はこぞってキャッシュレス決済に取り組んでいます。
2021年の春から夏にかけてCBDC(Central Bank Digital Currency:中央銀行デジタル通貨)の世界動向について調査をしていたことがありました。一時期流行っていたCBDCというキーワードも最近は表舞台で目にすることは少なくなってきた気がします。ハイブサイクルで言うところの幻滅期または啓発期に入っているのかもしれません。当時は最先端を走っていて実証実験もかなりの数をこなしていた中国でも、CBDCへの移行が完了したという話は聞かないので、なかなか難しい状況なのだと想像されます。その調査の中で、ベトナムでの銀行口座保有率は40%、クレジットカート保有率は11%、ただしQRコード決済がかなり流行っている、という事実が判明しました。
当初本カラムでは、銀行口座保有率40%、クレジットカード保有率11%の世界の中で、ITがどのような役割を果たしているかということを考察しようと考えていました。改めて状況を確認してみると、現在では74.6%の成人が銀行口座を保有しているそうです。クレジットカード保有率も増加しているそうですが、人口1億強に対してカードの発行枚数は81万枚だそうです。想定していた内容とは異なってしまいましたが、2年余りで口座保有率が倍増した理由を考えるのも面白そうなのでこのまま続けます。

そもそもベトナムではなぜ銀行口座保有率が低かったのでしょうか。
当時の聞き取りで多かった理由として、

  • 銀行が信用できない
  • 郊外、農村部では手近な場所に金融機関がない
  • ATMの使い勝手が悪い
  • 銀行での手続きが煩雑

という声があげられていました。
「銀行が信用できない」というのは、文化的背景からくるものだと思われます。調査の過程では、銀行による不正や汚職に関する情報もあるにはありましたが、日本と比べてもそんなに突出したものではありませんでした。中国CBDCを調査していた時に仕組みや専用アプリの機能を知りたかったため、知り合いの中国人に新しい口座を作ってもらえないかお願いしたことがあったのですが、政府に情報を登録しなければならないため口座の開設はしたくないと断られたことがありました。ベトナムでもこのような感覚が残っているのかもしれません。
「郊外、農村では手近な場所に金融機関がない」、これはその通りで、ハノイやホーチミンなどの大都市および周辺都市では銀行はどこにでも見られますが、農村ではほとんど見かけることはありません。ATMの台数にしても、2021年のデータになりますが、日本では116.94台/10万人に対し、ベトナムでは27.05台/10万人ということでした。現金の出し入れにわざわざ都市部まで出かけるくらいなら預けるより手元に置いていた方が楽という考えはよく理解できます。
「ATMの使い勝手が悪い」、これも実生活上で実感することです。2010年~2014年までベトナムに住んでいたのですが、キャッシュカードがATMから戻ってこないことがありました。周囲の人もかなりの割合でカードが戻ってこないという経験をしていたようです。また、ATMに現金が入っていなくて引き出しできないということもよくありました。給料日直後だと高額紙幣が不足してしまい小額紙幣で引き出された、そもそも十分な現金が入っていないため引き出しできないということを珍しくない頻度で経験しました。2023年5月よりこちらで生活していますが、現金が出なかったことが2回、ATMにエラーが表示されていたことが3回ありました。
「銀行での手続きが煩雑」、これもよく聞きます。以前のコラムにも書きましたが、店員さんがあまり親切ではなく、こちらが怒られているような感じになります。人と場所によるとは思います。今でも気心の知れた店員さんのいる支店以外に入るのは少し気が引けます。

上記様々な理由により口座保有率は当初は低かったのですが、この状況を改善するためにベトナム政府は2021年10月に「2021年~2025年のベトナムのキャッシュレス決済の発展枠組みに関する合意:No.1813/QDTTg」として、キャッシュレス決済の比率の引き上げ、成人男性の口座保有率80%以上等の方針を打ち出しました。この方針が見事に実現されつつある状況です。
実現に導いた大きな要因のひとつは国内統一QRコードの制定にあるかと思います。日本でも統一QRコードの話はありますが現状では普及率は1.5%と認知度は非常に低いです。
一方ここベトナムではQRコード決済はかなり普及しています。それも、決済代行業者が介在する形ではなく、個人口座から直接先方の口座へ振り込みが行われる形で。現在私が住んでいる周辺ではQRコード決済が使えないお店に出会ったことはありません。ただしこちらでのやり方が日本で普及するかと言えば、そうとも言い切れない感じがします。日本で受け入れられないと思われる点は2点あります。
一つ目は、こちらの端末をお店の店員さんに渡さなければならいことがあるということ。
二つ目は、どこに振り込んでいるかわからないことがあるということ。
両者に共通していることは運用面での問題であるということです。
一点目について、店舗でQRコード決済をしようとした場合、QRコードは店舗側のレジ画面に表示されます。それを客のスマホでスキャンしなければならないですが、レジ画面は客側から確認できるような場所にはないため(店員側から見やすいようにレジ画面が設置されている)、スマホを店員に渡して、店員がスキャンするような仕組みになっているところが結構な割合であります。日本ですと、スマホを渡す客側もそうですが、他人のスマホを受け取る側の店員もちょっと嫌ですよね。
二点目について、支払い時に店舗側からQRコードを提示されるのですが、なかには個人のスマホに表示されているQRコードを提示してくる店舗もあります。店舗のコードなのか個人のコードなのかわからないこともあります。これも不安材料の一つです。
そのような状況ですので、決済にかかる時間も短縮されているわけではありません。
とはいえ、私が感じているこれらの不安に対して、こちらでは特に問題視はされていないようです。急速に発展している状況に対して、私の方が対応できていないのかもしれません。

このように統一QRコードが普及したことによって、銀行口座保有率が低かった理由はほぼ解消された状況となっています。
ベトナムはスマホの普及率も高く(63.1%:世界第10位、日本63.2%:世界第9位、2022年4月現在)、端末を持っている人にとっては、スマホはATMであり、銀行そのものもと言ってもいいかもしれません。銀行口座を開くまでは乗り越えなければならないハードルもありますが、いったん開いてしまうとその恩恵は図り知れません。
そういった状況もあり、2年間で口座保有率が2倍になるというびっくりするような結果を出すことができたのだと思います。
キャッシュレス決済とITは切り離すことはできません。ITの力が、銀行口座がないことが当たり前だった世の中を、銀行口座を持っていることが普通である世界に2年間で変えてしまったのです。「ITが世の中を変える」というスローガンはしばしば目にしますが、本当に変わってしまうという経験は日本ではなかなか味わうことができません。
もともとは、銀行口座がなくてもITの力で世の中がうまく回っているという話をするつもりだったのですが、その前提そのものがITによって覆ってしまいました。改めてITが持つ力を実感しました。

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筆者紹介

安部聡(あべさとし)
1966年生まれ。ティンヴァンソフトウェア所属。1990年松下電器(現パナソニック)の研究所に入社。通信関係の組込み開発者として業務に従事。3G/4G通信システムの研究開発を行う。2010年にパナソニックR&Dセンターベトナムの責任者として4年間ベトナムに駐在。帰国後FPTのマネージャーを経て現在に至る。入社当時は開発の傍ら、ルーティングテーブルを手動で設定しUUCPやsendmail.cfをゴリゴリ書いて外界と接続するというネットワーク管理の仕事を経験。また有志によってテープカートリッジで郵送回覧されるフリーソフトのインストールやアップデート等システム管理的な業務も経験。当時とは比較にならないほど複雑化したシステムのメンテナンスを行っているシステム管理者には頭が下がります。
所属会社はハノイに本社を置くソフトウェア開発会社。日本関係のソフトウェア開発を実施する事業部を設立し、リソース提供、ソリューション提供を実施中。
現在はベトナムのハノイに駐在中。特に趣味もないため週末は自宅でYoutubeやNetflixを鑑賞しています。

【会社URL】
https://tso.vn/ja

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