ICTが正す企業文化と倫理

第6回 おわりに~新しい企業像を求めて

概要

「コーポレートガバナンスや内部統制について、その見直しや強化が叫ばれる昨今、競争と効率性の追求をその本質に秘めたままの企業社会はこれからどこに向うのだろうか」について連載シリーズとして掲載いたします。

ここ数日、大手菓子メーカーの賞味期限切れ牛乳使用事件が大きく報道されています。過去に起きた同様の事件とほとんど同じお粗末な手口です。また先般は、大手証券会社の巨額の粉飾決算があきらかになりましたし、わが国の銀行がマネーロンダリング防止措置についてアメリカの当局から業務改善命令を受けました。いつになったら企業はもう少し賢くなれるのでしょうか。最早、非常事態だと感じます。

<仮説1>不祥事を引き起こす企業は、経営理念が存在しないか、企業理念そのものが間違っている。

そもそもわが国では、数百年間も存続している一部の老舗企業を除いて、大企業の成り立ちそのものが欧米のような市民オリエンテッドなものではなく、明治維新政府の主導であったことが、企業と社会、企業と個人の関係を決定しているという考え方があります。すなわち、企業は、社会の発展に伴い生成してきたのではなく、社会を近代化するための官製の牽引役(エンジン)であったのです。その結果、わが国では経済至上主義というよりも、まるで企業至上主義的な社会ができあがってしまいました。

したがって、わが国の多くの企業には、企業とは、社会や国民生活を豊かにするための外部の組織であり、社会によって生かされているのではないという、根本的な発想の誤謬が存在しています。最近話題になることの多いCSRについての視座も、企業側からの「社会(市場)がそれを求めているから行わなければならない」というマーケティング的なスタンスで取り組むことになってしまい、企業のあり方そのものについての議論であることがなかなか理解されません。

さて、経営学の教科書を紐解くと、ほとんどが「企業とは利益をあげることを第一義的な目標とし、存続かつ成長が求められる」という定義から始まります。そして、その目的を達成するため競争優位を確保する経営技術論が解説されています。わたしは、そういう書物を読みながら「どこか違うのではないか」、「このままではいけないのではないか」と考え続けています。産業資本主義から脱皮した21世紀の企業のありようは、「競争」や「成長」という文言を、「共生」や「調和」という新しい言葉に置き換えるべき時代になったのではないかと感じています。

わが国の企業は、明治維新後と十五年戦争後の二段階の成長プロセスを経てきました。そのいずれも、欧米の先進工業国へのキャッチアップがスローガンでした。『Japan as No.1』と謳われた1970年代のおわりまで、常に欧米諸国に比べて後発国(late development country)でした。そして、GDPベースで世界第二位になり先進工業国の仲間入りを果たしましたが、どうも精神構造的には未熟なままで大きくなったようです。

いわゆる後発効果(late development effect)というのは、経済成長のステップを省略(スキップ)して近代化を達成することをいいます。わが国で、キャッチアップ時代に培われてきた勤勉や猛烈という突撃精神は、西欧におけるプロテスタンティズムのように一人ひとりの胸に奥深く内省化しないで、外部市場や企業組織内において、他者にも見境なく自分と同じ価値観を強要するという均質志向として表現されました。人間性を無視したような効率化や合理化が、企業の発展という目標に向って、社会や従業員にも驚くほど素直に受け入れられ、また、それが国際摩擦の大きな原因にもなったのです。

慧眼な経営者は、早くからそのことに気づいています。闇雲に「規模の利益」を追い求めることを自ら諌め、共生の精神を企業理念として、地球的(グローバル)に受容される企業たらんことを志しています。しかし、いまだにシェアの拡大と目先の利益確保に血眼になり、自己中心的で管理志向の経営技術論から脱却できない経営者は、自らの価値観を社会という鏡に照らすことすら忌避しています。

IRやSRがほとんど眼中になく、社会に対してひたすら寡黙な経営者の姿です。いくら美辞麗句の経営理念やコーポレートスローガンでうわべを飾ろうと、口先で高邁な孔孟の精神を唱えようと、まさに「ベニスの商人」の域から一歩も出ていないといえましょう。

そして、不祥事発覚のたびに、経営者が「コンプライアンスの徹底やコーポレート・ガバナンスの見直し」と決まったようなお題目を唱えても、それだけでは企業の本質は変わりません。その企業の存在理由や社会的意義を根底から見直す必要があります。

そう考えると、不祥事を起こす企業には正しい企業理念が存在していないといっても過言ではないと思います。

<仮説2>21世紀の企業は、フラットで透明な組織と適正規模を求める。

ここ数年、世界的レベルでM&Aが行われています。その背景には、資本主義の進化による超巨大企業化と業界再編というトレンドがあり、また一方で、巨大ファンドの跳梁跋扈による企業買収への自己防衛や対策という側面もあります。しかし、それ以外には、端的に言えば、日常的な企業価値経営への怠慢や経営失敗の繕いか、自分本位に業界での競争優位を確保するための「規模の利益」の追求でしょう。

企業の合併や吸収などの経営手法は、むかしから盛んに行われてきました。しかし、企業文化の異なる企業同士の合体は、結果的に必ずしもその企業を強くし、社員を幸福にしたとはいえないことはご承知のとおりです。ましてや、企業経営者がその事業規模に相応しい能力や器量を持ち合わせていないときや外部からの厳しいコーポレート・ガバナンスが働かないときは、そのような巨大企業の存在は社会にとって有害以外の何ものでもありません。ここにきて大規模なM&Aがトレンドになることに、若干、時代錯誤的覇権主義の復権という危惧を抱くのはわたしの杞憂でしょうか。

近年、企業はリストラによる経営スリム化と同時に、ICTの進展によって分社化やアウトソーシングという外部とのネットワーク活動を強力に推進してきました。その方向性は、取引費用(トランザクション・コスト)が少なくなれば、企業は外部契約を活発化させるという古典的な理論にも合致します。いくらグローバリズムの時代とはいえ、アングロサクソン・キャピタリズムの行動をひたすらなぞるのは、わが国企業の経営哲学の乏しさです。

今年五月には三角合併が解禁になりますが、わが国の企業のすべてがそれにより外国資本に席捲されるものでもありません。それに、企業価値極大化や株主価値向上というのは、従来から経営者が本来的に追求するべき株式会社の目的であったはずです。冷静に対処しなければなりません。

企業が社会の一員であるということは、なによりも社会倫理が企業行動に適応されることです。ところが、企業内には多くのローカル・ルールが存在します。それがすべて、社会倫理より厳しい倫理基準に基づくものかというと、必ずしもそうではありません。そして、わが国企業独特の集団主義に基づく心理特性もあって、ともすれば、経営者や社員は、あたかも一般社会以外に企業という自分たちだけの別の価値観の世界が存在するという錯覚に陥ってしまいます。それが危険なのです。

ICT化によって、企業内外の情報流通はますます進み、企業組織がフラットで透明なものになりつつあることはあらためていうまでもありません。翻って考えれば、最近の企業不祥事の露呈も、その効果のひとつであると思います。ICTの進化はそういうように企業の自浄作用のツールとして働いている側面があります。

勝者のたくさんいる社会へ

スポーツの世界では、最も早い者、強い者が勝者として一身に賞賛を受けます。それとまったく同じ考え方がわが国の学校教育でも、現代企業において通用しています。産業資本主義社会とは、そのような人間の動物的欲望のままに営まれる闘争社会でした。

かつて、ローマで行われた闘技場での見世物は、人間がその動物的本能としての闘争精神をそこに置いてくるための巧みな仕掛けだったのではないでしょうか。ですから、市民は社会生活の営みにおいて、人に優しくなれたのです。ところが、いつの頃からか、人間はその闘争精神を劇場やコロセウムの中だけではなく、実際の社会生活の場にもそのまま持ち込んでしまいました。これは人間の堕落でした。赤裸々な欲望の満足追求とそのための飽くことのない闘争の日々がはじまったのです。

今、漸く、わたしたちはそのような社会に陥ってしまったことを反省しつつあります。それが、ポスト産業主義時代といわれる現代の最も重要な視点です。価値観そのものを変革することが求められているのです。「一人勝ちは善」ではないということ確認しなければなりません。多元的に人間の営みを、見つめながら、それぞれが、その生における勝者として賞賛される社会を創造する必要があります。経営にもそのような精神が求められています。

忘れてはならないこと

わたしは、このシリーズの第一回で『企業活動は、人間(内部も外部も含む)を幸せにしなければならない』と書きました。半年間の考察を経て、やはりその考え方が正しいと感じています。ところが、現代の経営者の中に、そのことを第一の目的にしていないように思えてならない場合がままあります。それどころか、そのような考えは、「まわりが許さない」とか「現実の資本主義社会とはそんな甘いものではない」というような反論を耳にします。

しかし、企業の存在は、個人と企業と社会という三層構造のなかで営まれていること、そして、企業とは社会がより豊に幸せになるために存在しているということを再確認しておきたいと思います。大切なことは、人間も企業も時代の流れの中で、学びつつ、自らを昇華させていかなければならないということです。歴史に学ばなければ、世界はこれからも暗黒の闇に続く獣の道を歩いていくしかありません。

最後に、新しい時代としての情報化社会を拓き、発展させることで人間と企業と社会が、いままでとまったく次元の異なる価値観や生き方への自己変革を果たすためのきっかけとなり、それを主導するのは、ICTという産業資本主義時代の究極の発明によるものであるということを確認して筆をおきたいと思います。(おわり)

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筆者紹介

松井一洋(まつい かずひろ)

広島経済大学経済学部教授(メディア産業論,eマーケティング論,災害情報論) 1949年生れ。大阪府出身。早稲田大学第一法学部卒業。阪急電鉄(現阪急HD)に入社。運転保安課長や教育課長を経て,阪神淡路大震災時は広報室マネージャーとして被災から全線開通まで,163日間一日も休まず被災と復興の情報をマスコミと利用者に発信し続けた。その後,広報室長兼東京広報室長、コミュニケーション事業部長、グループ会社二社の社長等を歴任。2004年4月から現職。NPO日本災害情報ネットワーク理事長。著書に『災害情報とマスコミそして市民』ほか。

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