BCPを考える

第3回 『まさか!こんなことが起きるとは…』~ケースで考えるBCP(1)

概要

注目を集めるBCP(Business Continuity Plan:事業継続計画)について、阪神淡路大震災を企業の第一線の現場で経験もとに連載シリーズとして掲載いたします。

目次
第一ステージ: 大地震発生 月曜日 05:30
第二ステージ: 会社到着 月曜日 06:30
三ステージ: 取締役工場長到着 月曜日 08:00すぎ
第四ステージ: 第一回対策本部会議 月曜日 09:00
第五ステージ: 第二回対策本部会議 月曜日 12:00

第一ステージ: 大地震発生 月曜日 05:30

単身赴任中のM製作所(中堅電子部品メーカー)の広報課長山田は,起床まであと30分というまどろみの中にいた。

そのとき,遠くからゴーというダンプカーが近づいてくるような轟音(1)を耳にし,「こんな朝早くからどこの工事現場に行くのかな?」と思った瞬間,経験したことのない大きな縦ゆれに飛び起 きていた(2)

十数秒間続いたゆれがおさまってから,彼がしたことは,三本の電話をかけることだった(3)

最初は,数百キロ離れた家族への安否確認だった。地震がおさまってから,数分も経っていなかったが,電話はすぐに通じた。まるで先ほどの地震など関係のないようなのんびりした家族の声に,ひとつの気がかりは解消した。

次にかけたのは,24時間操業の本社工場守衛室だった。しばらく呼び出したが誰もでなかった。なぜか胸騒ぎがした。 最後に,上司の総務部長に電話したが,こちらも電話は固定電話も,携帯電話も呼び出し音すらなく無音だった(4)

山田は,ともかく一刻も早く会社に向かおうと考えた。地震で工場に大きな被害が出ていれば,株価にも影響するし,上場 企業の責任としてマスコミへの発表が必要だと思った(5)

数日間,帰れぬことを覚悟し,急いで支度をして外に出てみると,マンションから三軒はなれたクリーニング店の二階建て家屋が倒壊 していたが,周囲があまりに静かなので,まさかそこに住人が生き埋めになっているとは考えられなかった(6)

いつも通勤に使っているミニバイクは,数台の自転車とともに横倒しだったが,なんとか引き出してみるとエンジンはすぐに かかった。

国道に出ると,不思議なことに普段はもう渋滞がはじまるはずなのに,車はほとんど走っていなかった(7)

 

第二ステージ: 会社到着 月曜日 06:30

一目散に街を駆け抜けて,15分ほどで会社に到着すると,本社事務所に隣接する工場付近からも煙が上がり,すべての明かりが消えていた。

少し明るくなり始めたなか,無謀にも,傾いている本社事務所三階の自分のデスクまで着くと,普段使って

いるコンピュータは床に落ち,鍵をかけていなかった机の引き出しは,すべて全開して,中身が付近に散乱していた(1)(2)(3)

山田は,再び電話に飛びついたが,どこへも繋がらなかった(4)

「どうすればいいんだろう…」と思案しながら,本社事務所を出たところで,走ってきた本社工場の副工場長に出会った。「山田,火はなんとか消したが,社員が何人か機械に挟まれたままだ。なんとか,救急車を手配できないか!」,「警察も消防も,電話は一切繋がりません。こうなったら,病院まで自分たちで行きましょう」,「わかった。負傷者をここまで運んでくるから車の準備をしてくれ!」(5)

山田は,社員の送迎用に使うマイクロバスを使おうとしたが、どの車もキーがついていなかった。そこで,たまたまキーを差し込んだままの他社の納品用ワゴン車の後部から荷物を引き出して,負傷者を乗せるスペースを作りながら,どこの病院へ搬送しようか考えた(6)

幸い病院に搬送が必要なほどの重症の負傷者は2人だけだったが,そのうち一人は意識がなく非常に危険な状態のように見えた。しかし,あいにく人工呼吸を施すことができる社員は周りにいなかった(7)

副工場長が「おれが行く」といって,車を発車させたので,山田は,工場の損害状況を確認するため工場に向った。

以前,生産部に所属していた山田の目に入ってきたのは,製造ラインの分断と精密機器の破損,そして毎朝,大手電機メーカーに納品する手はずの重要部品のほとんどが,消火器の泡にまみれて使いものにならない状況だった(8)

 

三ステージ: 取締役工場長到着 月曜日 08:00すぎ

自宅から自転車で二時間もかかったという取締役工場長は,山田の顔を見るなり,「直ちに緊急事態対策本部を設置する」と宣告した(1)

地震発生直後から,ずっと携帯ラジオを聴き続けてきた取締役工場長は,大地震の状況をかなり詳細に把握していた(2)

広報担当者として対策本部の正式メンバー(3)である山田は,机の奥に放り込んだままの,半年ほど前に配られた赤い表紙の『緊急事態対策規定(以下,規定という)』を思い出しながら,対策本部の準備にかかった(4)

規定で対策本部の場所に指定されていた本社三階の会議室は,照明が落ち,窓ガラスが割れて使えない状態なので,結局,被害の少ない工場一階の社員食堂を使うことにした(5)。

 

第四ステージ: 第一回対策本部会議 月曜日 09:00

社長とは連絡が取れないため,取締役工場長が本部長代行となって,9時までに出勤できた課長以上の管理職8名を召集して開催した。事前に定められた役割どおりのメンバーは,山田以外誰も出勤できていなかった(1)。そこで,取締役工場長があらためて各自の作業分担を指示した。

会議で決定された事項は次のとおりである。

  1. 社長をはじめ,社員全員とその家族の安否確認に努めること(2)
  2. 全社の被害状況をできるだけ詳細に調査・確認すること。
  3. 速やかに取引(納品)先へ被害状況を連絡すること(3)
  4. 下請け会社の被害状況(操業も含む)を確認すること(3)
  5. 工場周辺住民の被害状況を把握すること(4)
  6. 停電・断水中なので,社員用トイレを至急手配すること。

なお,第二回会議を三時間後の本日12時に開催する(5)
また,会議の記録は,当面,山田の責任とする。

 

第五ステージ: 第二回対策本部会議 月曜日 12:00

第一回会議の決定事項への対応について,それぞれの担当者より報告。会議参加メンバーは15人に増えた。また,一般社員も少しずつ出勤しつつあるので,随時,チームに編入して,以下の作業を行うこととした。

  1. 少しずつ電話やメールが通じ始めたが,本社従事者120人中65人,本社工場従事者450人中250人と,いまだ連絡が取れない。また,社員やその家族に死傷者がいる模様。
    (⇒緊急に社員救援本部を設置する(1))。
  2. 築後50年以上を経過して,老朽化していた本社事務所は,倒壊の危険があり使用不能。
    (⇒三日を期限に,本社機能を徒歩30分圏内の事前想定
    第一候補ビル=被害なし確認済み,に移転する(2))。
  3. 本社工場の建物自体は使用可能だが,一部の操業開始にも二週間程度は必要。
    (⇒残った資源を,事前想定で決めてあった大口取引先の重要部品製造に集中することとし,少なくとも一週間以内に操業開始を目指す。また,破損した機械のうち緊急に必要な数点は,今日中にメーカーに発注する。
  4. 主要納品先には,今日から当面,信州工場より納品することで了承をいただく(3)
    (⇒本社工場従事者のうち,工場隣接の新築独身寮にいて,被害のなかった若手社員50名程度を明日,第一陣として信州工場に応援派遣する。担当はバスの手配をする)。
  5. 下請け会社の被災状況調査と支援,工場周辺住民の救援について工場を中心にチームを結成して活動を開始する(4)
  6. 必要な資金・現金等については,取引先銀行と至急,調整するとともに,一定の手元現金を至急確保する(5)。なお,出勤した社員の当面の飲食料について手配する。
  7. 主要株主には連絡でき次第,個別に被害状況を報告するとともに,一般株主やステークホルダー向けのお知らせをホームページ上に掲載する。
    また,必要に応じて記者発表を行い,新聞にも社告を掲載することも検討する(6)
  8. その他,証券取引所,監督官庁,地方自治体,保険会社等関係先への連絡についても万全を期すことにする(7)
  9. これらは,非常時の措置として,すべて取締役工場長が責任を持って決済する。
 
こうして,山田広報課長の長い戦いが始まった。
彼がマンションに帰宅したのは,混乱が少し収まった, 発災から一週間後だった。(次回に続く)

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筆者紹介

松井一洋(まつい かずひろ)

広島経済大学経済学部教授(メディア産業論,eマーケティング論,災害情報論) 1949年生れ。大阪府出身。早稲田大学第一法学部卒業。阪急電鉄(現阪急HD)に入社。運転保安課長や教育課長を経て,阪神淡路大震災時は広報室マネージャーとして被災から全線開通まで,163日間一日も休まず被災と復興の情報をマスコミと利用者に発信し続けた。その後,広報室長兼東京広報室長、コミュニケーション事業部長、グループ会社二社の社長等を歴任。2004年4月から現職。NPO日本災害情報ネットワーク理事長。著書に『災害情報とマスコミそして市民』ほか。

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