概要
ITインフラ運用保守が「動いて当たり前」と見なされがちな現状に一石を投じ、その裏にある真の価値、そして暗黙知・経験値の限界、さらにインフラ管理者が「ユーザーの仕事」を守るという視点についてSFでの例えを交えながら深掘りする。
ITインフラ運用保守の現場では、情報の伝達ミスや認識のズレが致命的な問題を引き起こすことがあります。「言った」「聞いてない」、「大丈夫だと思った」「全く違う意味だった」――このような「誤解の罠」 は、なぜ私たちの日常に潜んでいるのでしょうか。本章では、「一般意味論」という視点から、言葉と現実のギャップ、そしてコミュニケーションの本質を解き明かし、IT運用における問題解決の新たな糸口を探ります。一般意味論は、単なる言語学の理論に留まらず、私たちが世界を認識し、他者と交流する上での根本的な課題を浮き彫りにします。
言葉と現実のギャップを埋める
一般意味論の核心にあるのは、「地図は地形ではない」という原則です。私たちが頭の中に描く「地図」(言葉、概念、計画、マニュアル、監視画面、データなど)は、決して「地形」(現実、実際の状況、システムの状態、顧客の真のニーズ)そのものではありません。どれほど精緻な地図であっても、現実の地形とは常にわずかなズレがあり、そのズレこそが誤解や問題の温床となるのです。この原則は、ITインフラ運用保守において特に重要です。なぜなら、私たちは常に抽象化された情報(地図)に基づいて、複雑な現実(地形)を扱っているからです。
ITインフラ運用保守の現場で考えてみましょう。あなたは完璧なシステム構成図(地図)を作成し、それに基づいて構築・運用を進めているとします。しかし、実際のシステム(地形)は、予期せぬ挙動を示したり、ドキュメントに記載されていない相互依存関係があったりします。あるいは、別の担当者が解釈した構成図(別の地図)と、あなたの描く地図が微妙に異なっているといったことも。例えば、ネットワークのトラフィックレポートが「正常」と示していても、特定のアプリケーションだけが遅延している場合、それは「地図」と「地形」のズレを示しています。監視画面がすべて緑色でも、それが網羅していない範囲で問題が発生している可能性は常に存在します。
ハインラインの「異星の客」は1961年に出版された激動の時代を背景とした宗教的SFですが、当時、世界の 人々の生活に密着した画期的なテーマに対して、火星で25年にも渡り神秘的理論を学んでい た青年・バレンタイン・マイケル・スミスが地球に戻り、葛藤と闘争、そして制覇する過程を描いています。 制覇については物語のお約束ということでここのテーマとは離れますが、Mr.スミスが地球で生活してい る間の思考の流れが一般意味論の応用として知られています。変化に乏しい社会の中で長年の経験 を基にした行動に慣れてしまうと、変化を受け入れることを避けてしまい、既存パターンに執着します。 Mr.スミスは地球で生活するための基本的な言葉や習慣の学習で苦労しますが、彼はその環境に同化 されずに自身が持つ「因果関係を正確に把握して言語化する一般意味論を軸とする思考」を突き進め ます。これらの思考の流れは敵対する必要はなく共存して使い分ければいいのですが、異質な感覚に 感情的に振り回される傾向があります。仮にそうであっても、IT技術を理解する上で論理的で帰納的な 思考は必要ですし、その思考の結果を行動に結びつけて成果を上げなければ意味を持たないのは事実だと思います。
情報の不完全性と「いついつ化」の重要性
私たちが受け取る情報は、完全とは限りません。「このサーバーは大丈夫」という報告も、その言葉が発せられた「いつ」の「どこ」の「どのような状態」を指しているのかが明確でなければ、不完全な情報として扱われます。一般意味論では、このような情報の不完全性を意識し、具体的な状況を明確にする「いついつ化(extensionalization)」を重視します。これは、抽象的な概念や一般的な表現を、具体的な時間、場所、条件に紐づける思考プロセスです。
例えば、「システムは安定しています」という報告を受けたとき、ITインフラエンジニアは次のように問いを深めるべきです。
• 「いつの時点での安定性ですか?」(例:最後の確認は5分前か、それとも1時間前か? 最新のデータはどこにあるか?)
• 「どのシステムのどの部分の安定性ですか?」(例:Webサーバーだけか、DBサーバーも含むのか? 特定のサービスか、全体か? 特定のリージョンか?)
• 「どのような基準(CPU使用率、メモリ使用量、レスポンスタイム、エラーログの有無、ディスクI/O、ネットワーク帯域、ユーザーログイン数など)で安定と判断したのですか?」(具体的に何を持って「安定」と定義しているのか? その数値は目標値と比較してどうか?)
• 「誰が、どのような方法で確認しましたか?」(手動での確認か、自動監視ツールか? 確認者のスキルレベルは?)
このように、漠然とした情報を具体的な「いつ、どこで、何がどうなっているのか」という視点で問い直すことで、情報の精度を高め、誤解の余地を減らすことができます。これは、口頭での報告だけでなく、ドキュメントやチャットでのやり取りにおいても非常に重要です。明確な質問を投げかけ、具体的な回答を引き出すことで、曖昧さを排除し、誰もが同じ認識を持てる状態を目指しましょう。
この「いついつ化」の実践は、ITインフラのトラブルシューティングにおいて、無駄な調査時間を削減し、問題解決の効率を飛躍的に向上させる基盤となります。
自己認識と「自己言及」の視点
もう一つ、一般意味論が私たちに教える重要な概念は、「自己言及(self-reflexiveness)」です。これは、私たちが何かを認識したり、言葉を発したりする際、その行為の主体である私たち自身も、その認識や言葉のシステムの一部である、という考え方です。つまり、私たちは常に自分自身のレンズを通して世界を見ており、そのレンズが認識を歪める可能性があることを意識するということです。
例えば、障害が発生し、「ネットワークが悪い!」とあなたが叫んだとします。このとき、あなたは「ネットワークの状況」を「認識」し、それを「言葉」にしています。しかし、その認識や言葉は、あなたの過去の経験、知識、感情、疲労度、そしてその瞬間のプレッシャーといった、あなた自身の中にあるフィルターを通して形成されています。この「自分というフィルター」の存在を意識せず、自分の発言が絶対的な真実であるかのように捉えてしまうと、他者との認識のズレが生じ、問題解決を妨げることになります。
「ネットワークが悪い!」と発言する前に、「私が今見ている情報では、ネットワークに問題があるように見える」というように、自分自身の認識であることを含めて表現することで、他者との協力的な対話を促し、より客観的な状況把握へと繋げることができます。これは、相手の認識の背景を想像し、自身の認識も絶対ではないという柔軟な姿勢を促します。ITインフラの障害対応では、感情的になりやすい場面も多々ありますが、自己言及の視点を持つことで、冷静かつ客観的な状況判断が可能となり、チーム全体の協調性を高めることができます。
日常会話でよく耳にする「〜となります」「〜ってなります」の微妙な違いも、こうした自己認識の表れです。「〜となります」は客観的事実や決定事項を述べる際に多く用いられ、公式な場や説明において情報の確実性を高める効果があります。一方で、「〜ってなります」は話し手の解釈や予測、あるいは個人的な感想が含まれる場合があり、非公式な会話や推測を交える際に使われる傾向があります。IT運用においてどちらが「正しい」と一概には言えませんが、この選択が無意識の「自己言及」を含んでいることを理解し、意図的に使い分けることが、より正確なコミュニケーションへと繋がります。自分の言葉が、どのように相手に伝わり、どのように解釈されるかを常に意識することで、IT運用におけるコミュニケーションの質は飛躍的に向上するはずです。
この章のまとめ:日常の「誤解の罠」を解き放つナビゲーション
一般意味論は、ITインフラ運用保守の現場に潜む「誤解の罠」を解き放つための強力なナビゲーションを提供します。「地図は地形ではない」という原則を理解し、言葉と現実のギャップを認識すること。そして、「いついつ化」で情報の精度を極限まで高め、さらに自分自身の認識のフィルターを意識する「自己言及」の視点を持つこと。これらの実践を通じて、私たちはより明確で効果的なコミュニケーションを実現し、問題解決の精度を飛躍的に高めることができるでしょう。
この思考法は、単に技術的な知識を増やすだけでなく、人間関係、チームワーク、そして最終的にはビジネス全体のパフォーマンスに大きな影響を与えます。ITインフラエンジニアが、情報伝達のプロフェッショナルとしても成長することで、日々の業務におけるストレスを軽減し、より建設的な環境を築き、自身の「見えない価値」を確実に周囲に伝える力を手に入れることができるはずです。
連載一覧
筆者紹介

1960年生まれ。
フリーランスエンジニア
情報処理学会ソフトウェア工学研究会メンバー
連想記憶メモリを卒業論文とした大学電子系学科を卒業。
国内コンピュータメーカーにて海外向けシステムのOSカーネルSEとアプリケーションSE、自動車メーカーにて生産工場のネットワーク企画から保守までの責任者、外資系SI企業の品質管理部門にてITIL,CMMI,COBITを応用した業務標準化に携わる。
合わせて30数年の経験を積んだのちにフリーランスとして独立し、運用業務の標準化推進や研修講師などに従事する。
80~90年代のUnix、Ethernetムーブメントをいち早くキャッチし、米カーネギーメロン大学や米イェール大学とも情報交換し、日本で最も早い時期でのスイッチングハブの導入も含めたメッシュ状ネットワーク整備を行うと共に、初期コストと運用コストをどのように回収するかの計画立案を繰り返し行い評価し、利益に繋がるネットワーキングという業務スタイルを整備した。
トライアルバイクとロックバンド演奏を趣味とし、自宅にリハーサルスタジオを作るほどの情熱を持っている。
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