資格取得への道 ITコーデイネータへの道

第1回 なぜ資格を取ろうと思ったのか(その1)

概要

リタイヤ間際のオヤジが、なんで資格取得に取り組むことにしたのか、どのような葛藤があったのかなど等

1.1 背景

 私がITコーディネーター(ITC)に興味を持ったのは今から5年前くらいです。55歳で親会社から関連子会社に転籍してからでした。実は、この子会社に転籍したのを機に、情緒不安定になったのです。この心の反応は想定外で、一番ビックリしたのは本人だったかも知れません。

 

 


 唐突な始まり恐縮ですが、リタイヤ間際のオヤジが、どうして資格を取得しようという気になったのか、いきさつや背景、心の葛藤などを、少しお話させて下さい。

 


 55歳で子会社に転籍しましたが、これは親会社の進路選択(早い話、早期退職です)制度によるものです。55歳で進路選択するのは、親会社にいる時に、前々から聞かされていて、もちろん頭では解っていたことです。転籍すると、(当然ですが)給与や処遇か変わりますが、しょうがないと納得したはずでした。人件費削減の施策としての(団塊の世代が主タ-ゲットの)進路選択制度は、会社の立場で考えると、やむを得ないと客観的には理解していました。

 


 また私の場合、当時、その子会社に出向中で、転籍後もそのままの職場で、仕事も殆ど変わらないものでした。変わったことは、転籍と同時に組織管理職から外れることくらいでした。

 


 昨日と今日(転籍前後の3月31日と4月1日)では、当人にとっても周りの人たちにとっても、大きく変わらないはずでした。それが今日から変なのです。朝会社に行くときから何となくおかしくて、椅子に座っても落ち着かず、仕事をやる気が出てこないのです。

 


 会社が変わることや、昨日と同じ仕事(内容や時間)で、給与・処遇などが変わる(下がる)のは、納得したはずだったのに…。組織管理職から外れることは、以前だと気にもしなかったはずだったのに、何となく蟠りがあるのです。最初は、自分でもこの心の変化の原因が解りませんでした。

 


 しょうがないと言って、今まで抑えていた会社への不満などが、心の中にじわじわと涌いてきて、自分でも抑えられなくなって来ました。

 


 「何で俺たちだけなんだ!」(そのころは管理職にだけ進路選択が導入されていました)、「会社は、管理職試験や推薦などの手間と金をかけて、会社の中枢を担う人材と言って、管理職にしたはずじゃなかったのか!管理職って何だったの?」、「システム障害だといえば夜も休日もなく率先して対応したじゃないか!」、「会社の業績が悪いといっては給与カットにも(否応なく)協力したじゃないか!」、「結局俺たちは、会社にとって都合の良い人間だけだったの?管理職は使い捨てなのか!」、など等。

 


 心の奥底ではまったく納得していなかった、ということに気づかされ混乱しだしました。今まで会社でやってきた事とか自分の人格などを、全否定されたような気持ちになったと思われます。

 


 約30年間、実態は中小企業と自嘲していた時代から、今では一応有名な大会社に、会社が成長する中で、会社・仕事優先の生活を続けてきていました。いわゆる会社人間の類でした。会社にも仕事にも愛着もありましたし、誇りも持っていました。自分なりに、結構会社に貢献した自負もありました。その会社の看板が無くなったという気持ち(空白感のようなものでしょうか)も、心が揺れだした一因かもしれません。

 


 また、日常の仕事でも、自分の受け止め方が変わってきました。

 


 転籍前後で、ある特命プロジェクトに関わっていました。前年の年末から始まったプロジェクトで、その第1段の予備調査段階ではPM(全体取りまとめ)でした。それが、4月からの第2段ではサブになりました。若手にPMを任せ、ベテランがサブに付くのは、それまでもよくある事でした。今までは当たり前で何とも思わなかった、若手PMの下でのサブというポジションも、心に引っかかるようになったのです。

 


 こんなことが重なって来たからでしょうか、どんどん仕事への興味が薄れ、やる気がなくなりました。最初の給料をもらった辺りが最低だったかもしれません。解っていた事とはいえ、いざ給料明細を見たときのガッカリ感は何とも言えないものでした。

 


 それまでは、仕事に限らず、後輩には(余計な)アドバイスなどをする方だったと思います。それが人と関わるのが億劫になり、自分から話かけるのが減り、必要なことしか喋らなくなり、仕事も必要最低限しかしなくなりました。回りからは、急にどうしたのかと思われていたことでしょう(でもベテランの私に注意などする人はいません)。飲み会に行くのも面倒くさくなり、飲む回数も減りました。

 


 会社に行きたくないという気持ちも、段々と強くなって来ました。今から思うと、うつ症状になっていたのでしょう。こんな陰鬱な悶々とした状態が、2、3ヶ月ほど続きました。

 


 転籍したばかりなので会社に行かなければと、毎日、自分を叱咤して一大決心をして、出勤していました。今から思えが、一歩間違っていれば、自分を追い込んで、うつ病になっていたかもしれません。知らなかったとはいえ、恐ろしくなります。

 


 今までの自分は何だったのか、転籍の判断は間違いだったのか等、今更考えてもしょうがないのは解っていても、色々な思いが堂度めぐりするばかりで、内向き・後ろ向きのスパイラルから抜け出せなかったです。

 


 それでも1ヶ月半を過ぎる頃から、「このままではいけない、何も解決しないぞ」という心の声も、片方では少し出てきましたが、抜け出すキッカケが見出せませんでした。

 


 今から思うと、救いの一つが、外部のユーザ会(研究会)だったようです。幸い当時の私は、ビーコンユーザ会の東日本システム運用研究会の会長と、運用管理事例研究グループに参加させて頂いていました。

 


 ユーザ会に出かけると言って、会社を離れることで、気晴らしになりました。また研究会メンバーの元気で話し好きなオジサン(失礼)達に会って、会社の枠を超えての本音のトークや、前向きで建設的な会話に加わることで、私も触発されました。メンバーに接している間は、自然に昔の自分に戻っているようでした。

 


 救いを求めて参加した訳ではなかったですが、少しずつ自分を、外から客観的に見られるようになっていったようです。内向きの時は、あんなに大きかった悩みが、少し離れて見ると、「何を小さなことで悩んでいたのか、取あえずは、仕事があって家族にもおマンマが食わせられてまだマシじゃないか」と、考えられるようになり、徐々に気持ちが楽になってきたのを感じました。

 


 もし、会社と自宅の往復だけで、気晴らしや気分転換の機会がなければ、内向きスパイラルから抜け出せず、どツボ(うつ病)に嵌っていたかもしれません。

 


 また、趣味(特に外に出る趣味)も、気晴らしや気分転換になったと思います。私の場合は、山歩きで気晴らしできました。歩き始めはウジウジ考えていても、後半は疲れてくることもあり、歩くことに集中し真っ白になれました。趣味だけでは、根本的な解決は出来なかったかもしれませんが、気持ちを楽にしてくれたと思います。

 


 その後、私自身が落着いてから色々な機会に、子会社への転籍者や、本体(親会社)で再雇用を選択した人達に話を聞いてみると、「やる気が出ない」とか、「このまま勤め続けられるか自信がない」等、愚痴をこぼされる方が結構多かったです。私と同じような気持ちになったのかもしれません。

 


 こんなどツボの状態が少しずつ改善し、気持ちが外向きになってくると、今後の自分は何がしたいのか、何が出来るのかなど等、今の自分やこれからについて、考えるようになりました。

 


 当たり前のことですが、何れリタイヤするときが来ます。60歳や65歳になって次を考えるより、55歳で今後の自分を考えるチャンスを貰えて良かった、早めに気づいてラッキー!と、自然に思えるようになって来ました。

 


 恥ずかしい話ですが、今まで内なる自分と面と向かって話をしたことがなかったようです。正直に言えば、転籍や定年など、必ず来るのが解っていましたが、どうせ会社のレールが引かれているし、もう少し先で考えようと逃げていたと思います。

 


 仕事の面でもやる気が復活してきましたが、以前のように仕事優先という気持ちが変わりました。勿論仕事をしないということではありません。仕事は時間内に必ず、そして可能な限り早く終わらせ、自分のための時間を作ろうと、メリハリや集中を意識するようになりました。

 


 会社と自分との距離感や、自分の中での価値観が変わってきて、「自分は自分、人は人」とごく自然に考えられるようになりました。自分でも不思議ですが、羨ましいとか妬ましいとかの感情が全く無くなり、後輩などが昇格しても素直に「良かったね」と言えるようになってきました。

 


 また、気持ちが前向きになって来てから、ストレスを感じなくなり、発言も建設的になってきました。私が明るくなったからだと思いますが、後輩も集まるようになり相談もされるようになって来ました。

 


 今後の自分は何がしたいのか、色々考えて出てきた思いは、「今までの経験などを社会に役立てたい、お返ししたい」というのと、「70歳まで働きたい」というものでした。

 


 70歳という数字に、特に意味があったわけではありません。幸い私は体が丈夫でしたし、山歩きで体力にも結構自信があり、65歳くらいでリタイヤはないだろうという程度です。

 


 これには、伏線があります。近所で同時期に60歳でリタイヤされた方が2名おられました。1名の方は悠々自適で隠居生活をされ、もう1名の方は時々仕事やボランティヤなどをされていました。半年後にお見掛けすると、お二人の印象がまるで違っていました。悠々自適の方は、半年でこんなに変わるのかと驚くほどヨボヨボで年老いて見えました。反対に仕事をされていた方はリタイヤ前とそれほど変わらない印象でした。

 


 日本人の寿命から考えても、60歳でリタイヤでは、その後20年から30年の”余生”があります。私は貧乏性なのでしょうか、「悠々自適、趣味三昧の毎日」はあまり想像できなかったです。こんな毎日では、きっと時間を持て余すだろうし、グダグダしている、そんな自分を想像するのも嫌だったです。先のお二人からも、何よりも社会との接触が減ると直ぐにボケるだろうと思っています。

 


 20年、30年というと、長いと思っていたサラリーマン人生の期間に匹敵するものです。全て自分のために使える時間ですので、十分な時間と言えます。第2ステージとして、(自分のために)何かしないと勿体ないと考えるようになりました。

 


 会社人間を自負する皆さん(私がそうでした)、老後は結構長いですよ!ボケるのは直ぐですよ!気を付けましょう。

 


 70歳まで働こうと考えた時に、決めたことがあります。

 


 一つは、今の子会社は60歳で辞めよう、再雇用延長しないということでした。再雇用延長した場合、64歳でリタイヤとなるので、それから仕事を探すのは無理だろう、70歳まで仕事をするのであれば、早めに次のための準備を始めた方が良いと考えたからです。それと、転籍の時に味わった、受身的な選択の後で味わった後悔のような思いは、もう嫌だという、恐怖感のような気持ちも大きかったです。

 


 もう一つ決めたことがあります。それは『自分は歳だと言うのを止める』という事ことです。歳を言い訳にしないようにしたので、最初はぎこちなかった(知らず知らずのうちに自分に甘くなっていたのかもしれません)ですが、やるための方法を考えるようになり、行動が変わってきました。

 


 半分強がりで始めましたが、結果的には良かったと思っています。『自分は歳だと言うのを止める』のは、皆様にも、是非お勧めしたいです。

 


以 上

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